『剣よりもペンよりも強し!? ほとばしる愛よ、氷を穿て! 〜芸術は爆発だ〜』





 昔々あるところに、雪と氷に閉ざされたゴットアプフェルフルス王国という北国がありました。
 ゴットアプフェルフルス国は、代々アッペンツェラー王室によって支配されていました。そして現在ゴットアプフェルフルス国を治めているのは、ランカシーレという名の女王でした。幼いころより学問に造詣が深く、多くの言語を操るランカシーレ女王は、齢二十三歳にして立派にゴットアプフェルフルス国を統治していました。国民はランカシーレ女王の慎み深い賢さに惹かれ、よく彼女の命に従っていました。それにランカシーレ女王の絹のような金髪、白磁のようなきめ細かい肌、薄紅色の唇、そしてぱっちりと見開いた理知的な目は、ゴットアプフェルフルス国の女王としてこの上なく相応しいものでした。
 ランカシーレ女王の両親は既に死んでしまっていました。独りぼっちになってしまっていたランカシーレ女王でしたが、多くの臣下に支えられながら、堅実に日々を送っていました。

 朝の空気が澄み渡る中で、ランカシーレ女王は城内にある古びた聖堂に立ち寄りました。ランカシーレ女王の纏う水色の豪奢なドレスや紅色の重厚なガウンに似合わず、その聖堂はあまりにも朽ち寂びていました。しかしランカシーレ女王はちょっとした好奇心と不思議な胸騒ぎに惹かれて、その聖堂の中へと歩を進めていきました。
 ランカシーレ女王がその聖堂の中に入ると、不思議なことに聖堂の扉はガチャリと閉まってしまいました。驚いたのはランカシーレ女王です。なにしろ扉の隙間にドレスが挟まってしまったため、身動きが取れません。誰かを呼ぼうにも、このがらんとした聖堂には人の影ひとつありませんでした。
 ランカシーレ女王は途方に暮れ、いっそドレスを脱ぎ捨ててしまおうかと思いました。するとそのときランカシーレ女王は、ふと聖堂の中央に不思議な黒い影のかたまりが浮かんでいることに気づきました。その影のかたまりはやがて輪郭を整え、身の丈二メートルはあろうかという人影になりました。
 ランカシーレ女王が驚いていると、その人影はランカシーレに問いかけました。
「お前がこの国を治める女王か。なれば、お前に我が子を孕ませようぞ」
 しかしランカシーレ女王はその声に怖気づくことなく、
「私は女王に違いありません。しかし誰一人として、私に触れることなど許しません」
と言い放ちました。するとどうでしょう、人影は自らの身体から一本の触手を作り上げました。その触手は黒くて蠢いており、直径はおよそ五センチほどの、男根を象徴としているかのような質感を放っていました。触手は聖堂の絨毯の上でべたりべたりとのたうっていました。
「その口調もどこまで持つかな」
 人影はそう言い、触手をランカシーレ女王に向けて這わせました。触手はにゅるりにゅるりと大理石の床を這い、ランカシーレ女王めがけて近づいてきます。ランカシーレ女王はドレスを扉に挟まれているため、逃げることができません。しかしランカシーレ女王は毅然とその触手を睨み付けたかと思うと、ドレスを思いきりたくし上げました。
「馬鹿め、自ら犯されようというのか」
 人影は高笑いをしました。しかしランカシーレ女王はおもむろに右足を振り上げたかと思うと、近付いてきた触手めがけてハイヒールを勢いよく踏み下ろしました。ライチの実がすりつぶされるような音が響き、触手はタールのような粘液を分泌して動かなくなりました。
「ぐうううっ……我が触手を踏み抜くなど……ぐああああっ!」
 人影は苦痛に悶え、やがてぽんという音とともに消滅してしまいました。
 ランカシーレ女王はハイヒールにねばりついていたタールのような粘液を聖堂の絨毯でふき取り、ドレスの裾を正しました。そのとき、聖堂の扉がガチャリと開いて、兵士たちがなだれ込んできました。
「女王陛下! ああ、こちらにいらっしゃりましたか! というのも、先ほどこの聖堂より邪悪な気が天に昇り、南の海のむこうへと消えていったのです! 女王陛下はご無事でしたでしょうか!?」
「ええ、私は大丈夫です。お気になさらず。お気づかいありがとうございます」
 ランカシーレ女王は兵士たちに対し、ドレスの裾をつまんで深々と頭を下げました。そんなランカシーレ女王の姿を見て、兵士たちは一生彼女に従っていこうと決意したものでした。しかしどんなに目の良い兵士でも、ランカシーレ女王のハイヒールにいまだ黒いタールのような粘液がこびりついていることに気付いていませんでした。

 ランカシーレ女王はそれから執務室で公務を行いはじめました。様々な税金を取り立て、公共事業を施し、貧しいものを助けるためにランカシーレ女王は持てる知識と才覚を充分に発揮して、女王としての公務をこなしていきました。
 ランカシーレ女王はふと一枚の羊皮紙に気付きました。その羊皮紙は、南の王国の王子との結婚の催促状でした。ランカシーレ女王はまだ結婚しておりません。国民の中には「ランカシーレ女王にも早く良き伴侶を、そしてお世継ぎを」と願う者も少なからずおりました。しかしランカシーレ女王はあまり気乗りがしませんでした。なぜなら斥候が言うには、その南の王国の王子は自分の城内にハーレムをこしらえて、毎晩とっかえひっかえ女性と身体の関係をもっていたというからです。英雄色を好むという言葉を知っていたランカシーレ女王も、さすがに節度を弁えぬ男に魅力を感じずにいたのでした。
 そう思ったとき、コンコン、とノックの音が響きました。ランカシーレ女王は慌ててその羊皮紙から目をそらせ、
「どうぞ、お入りなさい」
と言いました。すると扉が開いて長い黒髪に緑のドレスを纏った女性が入ってきました。その女性は大きな髪飾りを付けており、にこやかにほほ笑んでランカシーレ女王に会釈をして扉をしめました。
「いかがです、ランカシーレ女王陛下? お手伝いしましょうか?」
「いいえ、結構ですわ。ありがとう、レビアさん」
 ランカシーレ女王は安堵したかのように笑みをこぼしました。
 レビアはランカシーレ女王の幼馴染でした。そしてレビアはランカシーレ女王の良き友として、長きにわたって彼女を支え続けていました。無論レビアはあまり家柄がよくありません。そのため王宮では、レビアはランカシーレ女王の下女として扱われていました。しかしそのような身分の違いなど存在しないかのように、レビアはよくランカシーレを手伝いねぎらうために、こうして頻繁にランカシーレのもとに訪れていました。
 レビアが執務室の椅子に腰を掛けたのを見て、ランカシーレ女王は言いました。
「先ほど、南の王国の王子との縁談について考えておりました。南の王国の王子というのは、あの奔放で粗野な噂の絶えないあの王子のことです。しかし……いくら気が乗らないとはいえ、私もいつかは身を固めねばならない立場です。多くの民も、私の結婚を望んでいることでしょう。ですので国のことを思えば、私は南の王国の王子と結婚すべきなのでしょう」
 ランカシーレ女王が物憂げな溜息をついたのを見て、レビアはランカシーレ女王にこう告げました。
「南の王国の王子の話については、あたしにも聞き及んでいます。女王陛下、迷う必要なんてありません。女王陛下にはもっと相応しい方がいらっしゃいます。あんな、女なら誰でもいいような男に、女王陛下は勿体なさすぎます」
 レビアのその過ぎた言葉に、ランカシーレ女王は一瞬窘めるような表情を呈しました。しかしやがてランカシーレ女王は、レビアの言っていることももっともだという認識を抱くに至りました。
「分かっております。しかし王室の結婚など所詮は政略的なものにすぎません。ですので南の資源豊かな王国との縁談をまとめれば、やがてはこのゴットアプフェルフルス国も豊かになります。そう思えば、この期に及んで私一人の身など安いものです」
「女王陛下。そのような結婚で一体誰が喜ぶと思っているのです?」
 レビアはランカシーレ女王を見つめたまま言いました。
「たしかにゴットアプフェルフルス国は貧しい国です。もっと資源があれば、と思うことなど、このあたしですらたくさんあります。ですが今やゴットアプフェルフルス国は、農地も増え工業も発達し、国民が皆満足に食事を取ることができるようになっています。それらはほかならぬ女王陛下のおかげです。女王陛下が施された国策のおかげで、国民は飢えをしのぎ続けられています。女王陛下がいれば、他のどの国に頼らずとも、国民は皆満足して生きていけます。それは国民が一番よく分かっています。そんなおりに、女王陛下が嫌々他の国の王子と結ばれて、一体どれほどの国民が喜ぶと思うのですか? 国のためを思えば、と言うのであれば、まずは今の国民がどんなことを考えているかを最初に配慮してください」
「しかし……」
 ランカシーレはやつれた表情で溜息をつきました。
「この国にも世継ぎは必要でしょう? たとえ相手が誰であっても、結婚して、世継ぎを作って、未来のこの国を任せられる王を育てなければなりません……。なぜならそれが私の一番の使命ですから……」
 ランカシーレは再び重い溜息をつきました。ランカシーレの溜息を聞いて、レビアはすっくと立ち上がりました。そしておもむろにランカシーレの机の前に立ったかと思うと、ランカシーレの王冠を乱雑に取り上げました。
「何をなさるのです!?」
「さあ、もうこれであなたは女王じゃなくなったわよ、ランちゃん!?」
 ランカシーレ女王は何も言えませんでした。レビアは続けます。
「少しの間だけでいいから、女王という身分に縛られるのはやめて! そして目の前の問題から一旦目をそらせて! いい!?」
「ですが……!」
 ランカシーレは反駁しようとしましたが、レビアがきりっとした眼でこちらを見つめているので結局口をつぐみました。
「ランちゃん」
 レビアは静かに言いました。
「もしあたしが、嫁ぎたくもない相手と嫁がなきゃならない、と悩んでいたら、一体どんな声をかける? 相手のことは好きでも何でもないけれど、ただ結婚によってあたしの家がお金持ちになるから、という理由と、相手など誰でもいいから子供を作らなきゃならない、という理由であたしがいけ好かない男と結ばれようとしていたら、ランちゃんならどんな声をかける?」
「それは……」
 ランカシーレは分かりきった答えを口に出せずにいました。レビアに見つめられたままランカシーレはしばらく俯いていましたが、やがてレビアに小さな声でこう言いました。
「……もう少し考えろ、頭を冷やせ、と申しあげるでしょう。子供が大事だと思うのであればこそ相手を選べ、目先の金銭にとらわれるな、という忠告をいたします」
「うん」
 レビアはランカシーレの頭を撫ぜた。ランカシーレは続けた。
「しかし……現に相手の要求が日に日に差し迫ったものになってきているのです。手紙だけで断れるようなこともできず、やがては貿易を介してゴットアプフェルフルスごと乗っ取るぞ、と言わんばかりの圧力もかけられております。そのような中で……私一人の我が儘で民を困らせたくございません……」
 ランカシーレの消え入るような声を聞いて、レビアはランカシーレの頭に王冠を乗せました。
「ランカシーレ女王陛下。でしたら一度南国の王子をゴットアプフェルフルス国に招きましょう。ランカシーレ女王陛下の気心の知れた臣下の前で、南国の王子がどのような人物であるかを見てもらいましょう。……結論が先に決まっていても構いません。結論など、後でいくらでも変えられるのですから。それに……今の女王陛下に必要なものは、女王陛下以外の人の客観的な忠告の言葉ですもの」
「はい……」
 ランカシーレは再びともし火のような声で返答しました。レビアはそんなランカシーレの顔を心配そうな表情で見やります。
「女王陛下、大丈夫です。何故ならゴットアプフェルフルス国にはランカシーレ女王という素晴らしい女王がいらっしゃるからです。国民は女王は愛しています。なればこそ、相手の王子が女王に相応しいかどうかなんて、皆すぐに見抜いてくれますよ」
「はい……」
 ランカシーレはしゅんと鼻をすすりました。やがてランカシーレ女王は大きく息を吐き、まっすぐにレビアを見ました。
「ありがとうございます、レビアさん。一度南の王国の王子を招いて、品定めをいたしたいと思います。その際には、ぜひともレビアさんのお眼鏡にかなうかどうか、お教えください」
「はい、もちろんです。女王陛下」
 レビアの声に、ランカシーレ女王はふっと笑みをこぼしました。レビアはそれを見て、安心したかのように小さくうなずきました。

 ランカシーレ女王は南の王国の王子をゴットアプフェルフルス国に招待する命を出しました。国中の要人を呼んでの盛大な食事会を開き、そこでランカシーレ女王と南の王国の王子がどれほど釣り合っているかどうかを皆に見極めてもらうためです。
 ランカシーレ女王はその命を出した後に、執務室を出ました。重い決断をした、という気疲れからか、ランカシーレ女王の足取りはふらふらしていました。ランカシーレ女王はそのまま廊下を歩き、宮殿を出て、庭園にある工芸小屋へと足を運びました。
 工芸小屋では職人たちが絵画や彫刻を日々作っていました。そしていつも工芸小屋でとりわけ熱心に絵を描いている職人に、ランカシーレ女王は会いに来たのです。
 ランカシーレ女王が工芸小屋の扉を開けると、そこには一人の銀髪の職人がいつもと変わらぬ仏頂面で絵を描いていました。その銀髪の職人は齢三十路前といったところでしょうか。彼は乱雑に組み立てられた椅子に腰かけ、煤けた画架にかけられたキャンバスにゆっくりと筆を走らせていました。
「ごきげんよう、パクリコンさん」
「ごきげんよう、女王陛下」
 パクリコンは女王の前であるにも関わらず、大して女王に関心を見せずにキャンバスとにらめっこしていました。ランカシーレ女王は手近にあった椅子に座り、パクリコンに尋ねました。
「良い色は出ていますか?」
 パクリコンはランカシーレ女王に目もくれず、筆をキャンバスに塗りたくったまま言いました。
「出ませんね。とくにここ数週間は、てんで思った色が出せていません」
 そう言いつつ、パクリコンはキャンバスに橙色の絵の具を重ねていきます。ランカシーレ女王は再び尋ねました。
「何故思った色が出ないのでしょう?」
「世界にはもっとたくさんの色があるからです」
 パクリコンは簡潔に言いました。
「世の中には俺の知らない色がもっともっとたくさんあります。なのに俺は絵の具をいくら混ぜても、ほんの数千種類の色しか作れません。夕陽の大きさ、虹の広さ、葉脈に流れる水分から動物たちの血液にいたるまで、俺はいまだに描けずにいます。絵ばかり描いていずに、もっと自然界の美しさに触れていた方がよっぽど幸せってものだと、つくづく感じます」
 ランカシーレはパクリコンの言葉をじっと聞いていました。パクリコンは筆を走らせ終え、パレットで絵の具をかきまぜました。
「女王陛下、こんなところに来ていていいんですか? また大臣に怒られたりしませんか?」
「構いません。女王たるもの、怒られる事には慣れております」
 ランカシーレ女王は諧謔的な笑みを浮かべました。パクリコンはそれを見てにやっと笑い、
「なら、一緒に怒られましょうか。俺の下手な絵を女王に見せびらかしていた、というかどなら俺も充分怒られえましょう」
 ランカシーレはその言葉に困ったような表情を浮かべました。
 パクリコンはふっと笑い、パレットと筆を置き、ランカシーレ女王のほうに座りなおしました。パクリコンは肩まである銀髪をかきあげ、ランカシーレ女王に告げました。
「先日より、この工芸小屋に大臣が顔を出す機会が増えました。要件はいたってシンプルです。毎回『ここに女王陛下はいらっしゃらないか?』と怒鳴っていくのですから」
「あら」
 ランカシーレ女王は意外そうな顔つきで返答した。しかしパクリコンは続けた。
「どうやら女王陛下がこちらで気を休められていることを、大臣たちは快く思っていないみたいです。何度も俺に対して、お前のような卑しい者が女王陛下に話す資格などそうそう無い、と言われたものですし」
「そんな……! 人と人とが話す上で資格など必要ございません! そもそも身分の差など、人が生きるうえで何になりましょうか!?」
「ははは、それを是非とも大臣たちに言ってやってくださいよ」
 パクリコンは色とりどりに濁った手拭いで、筆をぬぐった。また一つ、新たな色の線が手拭いに引かれた。
「大臣たちが女王陛下の行方を探しているときには、俺も恭しく大臣たちにデタラメな方向を教えたものです」
「あら。でしたら私がこれまで庭園で自由な時間を満喫できたのは、パクリコンさんのおかげでございましたか」
「芸術家は時として嘘吐きだ、ということを覚えていただけるとありがたいですね」
 パクリコンとランカシーレはふふっと笑った。工芸小屋の中のよどんだ空気が、窓から差し込む陽の光によって少し和らいだ。
「女王陛下、また大臣たちが探しに来るかもしれません。しばらくはこちらにいらっしゃることをお控えになってはいかがですか?」
「嫌です」
 ランカシーレ女王はきっぱりと言った。それは子供の駄々に近いものだった。
「私がどこへ行こうと私の勝手です。それこそ、公務をしようがしまいが、どこの誰と嫁ごうか嫁ぐまいか」
「ははは、それでこそ女王陛下だ。お好きに遊ばせ」
 パクリコンは乾いた笑いに乗せて手ぬぐいを近くの手桶に浸した。濁った絵の具がじんわりと水の中に溶け出始めた。
 一方でランカシーレ女王は、発してしまった自分の言葉を何度も反芻していた。やがてランカシーレ女王は、尋ねようか尋ねまいかと迷っていた事柄をパクリコンに尋ねた。
「失礼でなければ教えていただきたいのですが……パクリコンさんはご結婚されているのですか?」
 パクリコンはランカシーレ女王から目をそむけた。そしておもむろに立ち上がり、パクリコンは前掛けを乱雑に外して、近くにあった机に乱暴に投げつけた。
「していません」
 パクリコンは立ち上がり、荒い息を抑えようとしながら答えた。
「金持ちに、金をやるからうちの娘を娶れ、と言われたことならあります。観賞眼のかけらも無い、商人あがりの金持ちでした。その金持ちは、俺の絵に肩書きを付けて高値で売り飛ばそうと考えていたようでした。そして芸術家を囲っているという体を為すために、娘とくっつけさせたかったのでしょう。……冗談じゃない」
「パクリコンさん……」
 ランカシーレは、触れてはいけない過去に触れてしまったかのような罰の悪さを感じた。パクリコンは続けた。
「芸術を侮辱されたような気がしたので、俺は断って逃げました。そのときに這う這うの体で辿り着いた先が、この王宮内工芸小屋だったんです。俺は絵で商売なんかしたくないんです。俺は、俺の絵を好き好んでくれる人の所で、ずっと絵を描いていたいだけなんです。それができるような場所は、この国の中ではこの工芸小屋しかありません」
 パクリコンはランカシーレ女王のほうを見やった。
「女王陛下と初めて会った時、女王陛下は長いこと俺の絵を見てくださりました。絵のことのみならず、画材や、筆や、絵の具の話までしてくださりました。俺は……女王陛下になら俺の絵を全て捧げても良いと思えました。それこそ、俺がこれから一生描いてゆく絵の全てを」
「パクリコンさん……」
 ランカシーレが思わずそう口にしたときのことでした。パクリコンは窓の外に、格式ばった服に身を包んだ男たちが工芸小屋に近づいてくることに気づきました。
「大臣たちだ! こっちにやってきている!」
「ええっ!?」
 ランカシーレは立ち上がろうとしました。しかしパクリコンはランカシーレの肩を押さえました。
「見つかるとまずい。奥のクローゼットに隠れてください。さあ!」
 パクリコンは背をかがめ、ランカシーレの右手を握りました。ランカシーレは左手でドレスをたくし上げながら、パクリコンの後をついていきました。パクリコンは小屋の奥にある煤けた木製のクローゼットの扉を開けるやいなや、ランカシーレの腰に手を回して抱き上げました。
「きゃあっ!?」
「喋らないで!」
 パクリコンはそのままランカシーレ女王をクローゼットに押し込みました。
「時間がない。だったら……!」
 何を思ったか、パクリコンもまたクローゼットの中に入り込み、扉をそっと閉じました。驚いたのはランカシーレです。いまだかつて触れたことすらないパクリコンが、目の前にいるからです。それも真っ暗なクローゼットの中で、肌と肌とを密着させながら、ランカシーレはパクリコンにしっかりと抱かれていました。パクリコンがあまりに近くにいるため、パニエがたわんでドレスの裾がはだけてしまっています。しかしランカシーレはそんなことを気にする余裕などありませんでした。
 すると工芸小屋の扉が荒々しく開く音が聞こえました。
「女王陛下はいらっしゃるか!?」
 パクリコンとランカシーレは声を押し殺して、事の成り行きに耳をそばだてていました。
「む……いないのか」
 その声を最後に、再び工芸小屋の扉が乱暴に締められる音がしました。
 ランカシーレは心臓が早鐘を打ち続けているのを感じていました。それと同時に、目の前のパクリコンという男にぎゅっと身体を抱きしめられたままである、という事態の認識をも抱きはじめてきました。手に汗がにじみ、耳たぶが赤くなってゆくのを感じました。
「行ったみたいです」
 パクリコンは小さな声でつぶやきました。一方で暗いクローゼットの中で、ランカシーレは耳たぶがこんなに赤くなっていることをパクリコンに気付かれまいかとどきどきしていました。
 パクリコンがランカシーレのほうを見やったとき、ランカシーレは思わず俯いてしまいました。
「女王陛下、いかがなされました?」
「いえ……あの……」
 ランカシーレはうまく舌が回らないのを感じました。パクリコンはそんなランカシーレに優しく言いました。
「きっと、急に隠れることになったのでどきどきしているのでしょう。外に出れば、すぐに治まりますよ」
 パクリコンがそう言ってクローゼットの扉を開けようとしたとき、ランカシーレ女王はとっさにパクリコンの腕を掴みました。
「お願いです……。もう少しだけ、このままでいさせてください……」
 ランカシーレは、その我が儘めいた言葉をひねり出すことで精一杯でした。

 数日後、ランカシーレ女王と南の王国の王子との食事会が開かれました。食事会は王宮内の庭園にて行われることになり、王室お抱えの料理長が腕によりを振るって最高級の料理を並べていきました。
 食事会には多くの臣下が呼ばれました。大臣から兵士長に至るまで、およそランカシーレ女王をよく知る者は皆列席していました。ただその場には、パクリコンの姿だけはありませんでした。
 ランカシーレ女王は庭園内の玉座に座って、南の王国の王子の到来を待っていました。ランカシーレ女王があまりにもこわばった表情をしていたため、臣下や下女はたびたびランカシーレ女王に、
「お気分がすぐれないように見えますが……」
と心配そうに声をかけていました。しかしそれでもランカシーレ女王は気丈に、
「ありがとうございます。私は平気ですので、どうぞお気になさらずに」
と返答していました。
 やがて人々の声が高まり、南の国の王子が到着したことにランカシーレ女王は気付きました。人々の列が割れ、ランカシーレ女王の玉座まで道ができました。
 ランカシーレ女王が見やると、馬車を降りてこちらに歩いてくる男が一人いました。短く刈り上げた黒髪に、精悍な体つきの男が、南国の礼服に身を包んで一歩一歩近付いてきます。
 ランカシーレ女王は立ち上がり、男の前に歩み出て言いました。
「はじめまして、ユーグ王子殿下。お待ちしておりました。どうぞおくつろぎください」
 するとユーグ王子はランカシーレ女王の前にひざまずき、ランカシーレ女王の右手の甲に接吻を施して言いました。
「初めてお目にかかります、ランカシーレ女王陛下。お麗しゅうございます。どうぞ、我が国とゴットアプフェルフルス国との未来を祝して、今日は是非とも語らいあいましょう」
 その姿を見て、ランカシーレ女王の臣下は思わずうなずきました。しかしランカシーレ女王だけは硬い表情のままで、
「ではあちらにお席を用意しております。どうぞお楽しみくださいませ」
と言って玉座に再び座りました。
 食事会はとても和やかに進みました。同じテーブルについたランカシーレ女王とユーグ王子は、料理を前にして海産物や農作物についての話に花を咲かせていました。ときおり冗談を交えつつ愉快そうに話すユーグ王子は、ランカシーレ女王に対してとても情熱的でした。ゴットアプフェルフルス国について、伝統と文化によって築かれた大国であると真摯に話す様は、さしづめ未来のゴットアプフェルフルス国の王として相応しかろう、と誰もが思ったことでしょう。唯一気がかりなことがあるとするならば、ランカシーレ女王の表情がずっとこわばったままである、という点だけでした。
 やがてコース料理が終わり、人々は歓談の時間を迎えていました。ユーグ王子はランカシーレ女王にこう持ちかけました。
「ランカシーレ女王陛下。どうか二人だけで夜の庭園を散歩いたしたいと思います。ご一緒していただけましょうか?」
 ランカシーレ女王は、ついにこの時が来たか、と思いました。相手もおそらくこの瞬間を最大のチャンスとしているはずです。ランカシーレ女王は気を緩めぬように、
「はい。ご一緒いたしたく存じあげます」
と言って席を立ちました。
 臣下の人々は「ついに女王陛下が王子と二人きりになったか」とわくわくした目で見送りました。ただそんな人々の中で、レビアだけは怪訝な目で夜の闇に消えゆくランカシーレ女王とユーグ王子を見ていました。レビアは何かに納得ができなかったのでしょうか、やがてレビアも夜の庭園へと姿を消していきました。
 二人きりで夜の庭園をあるくランカシーレ女王とユーグ王子は、しばらくの間庭園の美しさとその造形について語らいあっていました。しかしやがてユーグ王子は口をつぐんだかと思うと、ランカシーレ女王にこう切り出しました。
「女王陛下。私は女王陛下を一目見たときから、その美しさに心を奪われてしまいました。女王陛下のたぐいまれなる知性と、その麗しい器量に、どうか愛の言葉をささやくことをお許し願えないでしょうか」
 その言葉を聞いて、ランカシーレ女王はユーグ王子に言いました。
「そう言って、一体これまで何人の女性をおたぶらかしになったのです?」
「たぶらかす!? とんでもない。このようなことを申し上げる相手は、ランカシーレ女王陛下が初めてでございます。何しろランカシーレ女王陛下ほど美しい女性など、この世のどこを探してもおりますまいに」
「……とこれまで何度女性に仰ってきたのです?」
 固い表情で告げられたランカシーレ女王の言葉に、ユーグ王子は一瞬言葉を失いました。しかしやがて、ユーグ王子はさきほどまで浮かべていた笑みをかなぐり捨てて言い放ちました。
「ランカシーレ女王こそ、何人の男を囲っているのです? 少なくとも十人で済んではいらっしゃるまいに」
 ランカシーレはその言葉を聞いて、かっと頭に血が上るのを感じました。
「何が十人ですか! 私は私の純潔くらい守り通しております! あなたと一緒になさらないで! 全ての女性が、自らの身体を遊び道具にしているだなどと思いあがらないで!」
「ほう」
 ユーグ王子はランカシーレ女王に一歩近づきました。あまりに近づいたのでランカシーレ女王はたじろぎ、つい柱の陰になっている部分に歩を退けてしまいました。
 ユーグ王子は言いました。
「権力があれば性も集まるものだ。現に私のハーレムには百人ほどの女が、毎日性を持て余しては遊び暮らしている。彼女たちに性の悦楽を与えるのもまた、私の仕事だからだ。そう、百一人目がランカシーレ女王になるという、ただそれだけの話ではあるのだが」
 ユーグ王子はランカシーレ女王の顎に手をやりました。ランカシーレ女王は思わず恐怖を感じてその手を払いのけましたが、ユーグ王子はしつこくランカシーレ女王の肩に手を回してきます。
「あなたがどんなに聡明な女王だと言っても、所詮は女に過ぎない。さしづめ、どんなにゴットアプフェルフルス国が栄えようとも、所詮は貧国であるように。強大な力の前では、哀れなほどに無力だ」
 ユーグ王子はランカシーレ女王に顔を近付けました。ランカシーレ女王はごくりと唾を飲み込みました。ユーグ王子はランカシーレの耳にこうささやきました。
「それをこれから証明してやろう」
 ユーグ王子は懐から一本の杖を取り出しました。その杖の先端には、不気味な紫色に光る宝石がはめこまれていました。
 ランカシーレ女王が驚いていると、ユーグ王子はおもむろにランカシーレ女王のドレスの裾をわしづかみにしました。
「いやっ、やめてっ!」
 ランカシーレ女王の抵抗も虚しく、ユーグ王子はランカシーレ女王のドレスを思いきりめくりあげました。ランカシーレ女王の白磁のような脚と、絹の下着で守られた下腹部が顕わになりました。ランカシーレ女王は己の貞操の危機を感じました。しかしユーグ王子が狙ったのは、ランカシーレ女王の下腹部ではありませんでした。
「こうしてやればいいだけなのだからな!」
 ユーグ王子は杖の先端で、ランカシーレ女王のハイヒールをコツンと突きました。その瞬間です、ランカシーレ女王のハイヒールにこびりついていた黒い粘液が急激に膨れ上がり、ランカシーレ女王の肢体にまとわりついていったではありませんか。
「いやあああっ!」
 その粘液はランカシーレ女王の身体にしみこんだかと思うと、ランカシーレ女王はぐったりとなり、その身をユーグ王子に委ねました。
 そのとき、物陰から一人の女性が飛び出してきました。
「そこまでよ、いったい何をしたの!?」
 声の主はレビアでした。レビアはユーグ王子をきっと睨みつけ、事の真実を糺しました。しかしユーグ王子は驚きこそすれ、やがてレビアに対して冷たく言いました。
「ああ。私はこれからランカシーレ女王陛下とともに、夜のお遊びへと興じに行くのだ。二人きりで行くので、お前には無駄な詮索をせぬよう心掛けていただきたい」
「何が二人きりよ! ランカシーレ女王陛下の気を失わせておいて、そんな勝手なことはさせない!」
「気を失わせた? それは違うな」
 ユーグ王子は不敵に笑いました。それもそのはずです、気を失っていたかと思われていたランカシーレ女王が、ゆっくりと自分の力で立ったのですから。レビアはランカシーレ女王に言いました。
「ランカシーレ女王陛下! すぐにその男から離れて! そいつが陛下に何をしでかすか、分かったものじゃありません!」
 しかしランカシーレは、蠱惑な目でレビアにこう言うだけでした。
「あら。私はこれから、この殿方とともに夜のお遊びへと興じゆこうと思っております。邪魔などなさらぬよう」
 その言葉に、レビアは愕然となりました。しかしレビアは叫びます。
「そんな……! 女王陛下! 気をしっかり持って! 惑わされないで!」
「フン、お前の言葉などとっくに届きなどしていない」
 ユーグ王子は冷たく言い放ちました。そしてレビアがどうしたものかと逡巡した瞬間に、ユーグ王子はレビアの腹を思いきり殴りつけました。
「がはっ……!」
「そこでくたばっておけ、女よ」
 レビアは倒れ伏しました。ユーグはレビアの身体を蹴り飛ばし、ランカシーレ女王の手を取りました。
「ではランカシーレ女王陛下よ、ともに行きましょうぞ」
「はい、ユーグ様」
 ランカシーレ女王はドレスの裾をつまみ、大胆にドレスをたくし上げながらユーグ王子の腕に自らの腕をからませました。
 二人が夜の庭園へと消えてゆく中で、レビアはぐっと身体に力を入れて這いあがろうとしました。しかし脚が言うことを聞きません。助けを呼ぼうにも声が出ません。やんぬるかな、と思った時、レビアは視界の隅に煤けた小屋を見つけました。それは庭園の端にある、工芸小屋でした。そして運のいいことに明かりがついています。
 レビアは這って、工芸小屋の扉の前までたどり着きました。息も絶え絶え、最後の力を振り絞って、レビアは扉を叩きました。
 扉が開き、絵の具に塗れた前掛けをしたパクリコンが現れました。パクリコンは、地を這うレビアを見やると、すぐに抱きかかえて工芸小屋の中の簡易ベッドに横たわらせました。
「何があったのです、ご婦人?」
「ランカシーレ女王陛下が……連れ去られてしましました……」
 レビアは浅い息の中で言いました。パクリコンは険しい表情を呈させます。
「連れ去られた? 一体誰に? どこへ?」
「ユーグ王子によってです……。行き先は分かりません。ただ……ランカシーレ女王陛下のご様子が尋常ではなく……ランカシーレ女王がユーグ王子に意のままに操られているようでした……。さらに……二人で夜の遊びに興じると言っていたので……恐らくは近場で二人は……」
「分かりました。それ以上喋らないで」
 パクリコンはレビアにタオルを手渡し、水の入ったコップと水差しを枕元に置きました。
「ご婦人。どうやら私はランカシーレ女王のもとに行かねばなりません。どうか、ご婦人を見捨てる私をお許しください」
「許しますとも……。ですから……どうか……。ランカシーレ女王陛下を……お助けください……」
 そう言って、レビアはがくっと気を失ってしまいました。
 パクリコンはレビアにタオルケットをかけ、急いで工芸小屋を飛び出しました。パクリコンはまず、レビアが這ってきた場所を探し当てました。ちょうど這い進んできたレビアによって草がなぎ倒されていたので、レビアが倒れ伏したであろう柱の陰はすぐにわかりました。そして同時に、その柱の陰から別の方向へと草がなぎ倒されていっているのも見て取れました。ハイヒールの踵のような鋭い物で土が抉られた跡もありました。
「こっちか……!」
 パクリコンはその方向へ向かって駆けて行きました。
 パクリコンが向かった先には、古びた聖堂がありました。パクリコンが扉を押しあけて聖堂の中に入ると、そこではランカシーレ女王がユーグ王子と抱き合ってキスをしていました。
「ランカシーレ女王陛下!」
 パクリコンは思わず叫びました。ランカシーレ女王はキスをやめてパクリコンを見やると、フンと鼻息を鳴らしてこう言いました。
「下賤な者よ。早々に立ち去りなさい」
 パクリコンは、レビアの言わんとしていたことを悟りました。
「ランカシーレ女王陛下! 気を確かに持ってください!」
「下賤な者よ、立ち去れと申し上げているのです!」
 ランカシーレ女王はドレスをたくし上げて、カツンとハイヒールを大理石に打ち付けました。
 ユーグ王子は一歩前へ出て、パクリコンに言いました。
「どこの誰だか知らないが、下賤な者よ。ここは私がランカシーレ女王と愛を育む場所だ。邪魔をしないでくれ」
「愛を育むだと……!? ランカシーレ女王陛下の心を操りながら、お前はなおをそのようなことを言うのか!」
「言うさ。心を操ってしまえば、ランカシーレ女王はその身を私にゆだねるのだ。そうしてしまえば、ランカシーレ女王は容易く私の子を孕む。そうなればこの国の未来は私のものだ」
 ユーグ王子は高笑いをしました。パクリコンはそんなユーグ王子に歯ぎしりしかできませんでした。
 ランカシーレ女王は言いました。
「下賤な者よ。私の愛を邪魔をするというのであれば、許しはしません。そこへ直りなさい」
 ランカシーレ女王は傲慢にもドレスを両手でたくし上げて、パクリコンに二歩三歩と近づきました。
「平伏しなさい! いやしくも私に意見しようだなど、烏滸がましいかぎりです! 頭を地に付けなさい!」
 ランカシーレ女王はパクリコンに近づき、思いきり平手打ちを食らわせました。パクリコンが思わずよろめくと、ランカシーレ女王はパクリコンの足に鋭くとがったハイヒールの踵を踏み下ろしました。
「ぐあああっ!」
 パクリコンの足から血が流れ出ました。パクリコンは痛みに悶え、思わずうずくまりました。
「それでよいのです、下賤な者よ」
 ランカシーレ女王は再びドレスを豪快にたくしあげ、パクリコンの身体をハイヒールで踏みました。ハイヒールの鋭利な踵は、パクリコンの身体に深々と刺さってしまいます。
「卑しい身分のくせに、私に楯突こうだなど」
 ランカシーレ女王は何度もパクリコンの身体をハイヒールで踏み抜きます。
「これに懲りたら、二度と私の前に姿を現さぬことを誓いなさい!」
 ランカシーレ女王はパクリコンの身体をぐりぐりと踏みにじりました。
 パクリコンは痛みに耐えながら、ランカシーレ女王を見上げました。ちょうどランカシーレ女王はドレスをたくしあげていたため、パクリコンからはランカシーレ女王の顔が見えませんでした。そのかわり、顕わにむき出しになったランカシーレ女王の下腹部が、パクリコンの前に堂々とさらけ出されていました。ランカシーレ女王が大切に大切に守り抜いてきた純潔を、今やランカシーレ女王はハイヒールを武器とするために、乱雑に見せつけているのです。
 パクリコンはそんなランカシーレ女王の下腹部から脚にかけて、黒い粘液によって生じた長い沁みを見つけました。そしてその沁みはランカシーレ女王のハイヒールに向かって集中していました。そしてハイヒールは今や真っ黒に染まってしまっていました。
 ランカシーレ女王がパクリコンをハイヒールで踏み抜くたびに血が滴ります。しかしパクリコンはじっと機会をうかがいました。
「これで……おしまいです!」
 ランカシーレ女王は再びドレスを豪快にたくしあげ、パクリコンめがけて脚を振り上げました。鋭利にとがった真っ黒なハイヒールの踵が宙を舞います。そのとき、パクリコンはガバリと起き上がり、ランカシーレ女王のハイヒールをその手で受け止めました。
「これ! 何をする!」
 ランカシーレ女王は慌てふためきました。しかしパクリコンはランカシーレ女王のハイヒールをぐっと掴み、そして力の限りを以ってハイヒールを外して遠くへ投げ捨てました。
「この……無礼者!」
 ランカシーレ女王は逆の脚でパクリコンを踏み抜こうとしました。しかしまたもパクリコンはランカシーレのハイヒールを強引に掴み取り、同じようにハイヒールを投げ捨てました。
 ランカシーレの脚からしゅううううっと黒い煙が出て、ランカシーレはうつろな目を呈しました。
「私の……ハイヒールを……!」
「ランカシーレ女王陛下! お許しください!」
 パクリコンはそう言って、ランカシーレ女王に深くキスをしました。パクリコンとランカシーレ女王の舌と舌がからみ、唾液が混じり、二人は息の続く限り接吻をしていました。やがてランカシーレ女王の身体から、黒い煙がしゅうううっと吐きだされていきました。そしてランカシーレ女王の肢体から黒い沁みが消え、ランカシーレ女王の身体のこわばりは次第に薄れていきました。
 長い長いキスを終えて、パクリコンはランカシーレ女王を見つめました。ランカシーレ女王はしばらく呆然とした面持ちでいましたが、やがて何かに気が付いたかのようにパクリコンの顔を見つめ返しました。
「あ、あの、パクリコンさん……!? 私は……一体……!?」
「ランカシーレ女王陛下。もう大丈夫です。ご安心を」
 パクリコンはランカシーレ女王陛下の髪を撫ぜ、優しくそう言いました。
 その瞬間のことでした。パクリコンがふと見やると、ユーグ王子が剣を抜いてこちらに切りかかってきました。
「危ない!」
 パクリコンはランカシーレ女王を抱いて横転し、ユーグ王子の剣先を避けました。ユーグ王子は荒々しい声でパクリコンに言いました。
「よくも……よくも私の術を……! ランカシーレ女王を我が物にする術を……! 許さん!」
 ユーグ王子はパクリコンに再び剣で切りかかってきました。パクリコンに抱きかかえられたランカシーレ女王は、思わず目を瞑ります。しかしその剣はキイイインという音によって弾かれました。そう、パクリコンが手にしていた筆によってです。
「この筆は、俺が芸術の道を選んだ時に師匠から貰った筆だ。ペンは剣より強し。同様に、筆は剣より強し、だ」
「こしゃくな!」
 ユーグ王子は再び剣を振り上げます。しかしその瞬間、パクリコンは懐に隠し持っていた絵の具を勢いよく噴出させ、ユーグ王子の目を橙色で塗りつぶしました。
「ぐうううっ! おのれ……卑劣な……!」
 ユーグ王子は激痛とともに、視界を奪われてしまいました。パクリコンは懐から橙色に染まった刷毛を取り出しました。
「芸術家って奴はな……」
 パクリコンはその刷毛をユーグ王子の口の中に押し込みました。口腔に油性絵の具が押し込まれ、ユーグ王子は思わず咽せびました。
「己より大事なものを守るためなら、どんな手段だって使うんだよ!」
 パクリコンは筆の柄で、ユーグ王子のみぞおちをいきおいよく突きました。ユーグ王子は吐血し、倒れて動かなくなりました。
「……急所を狙えば、筆一本でも人は倒せる。殺せはしないが、婦人一人くらいなら守れるものだ」
 パクリコンは前掛けを手で払い、ランカシーレ女王に手を差し伸べました。
「どうぞ、立ち上げますか、女王陛下?」
 ランカシーレ女王はパクリコンの手を取ったかと思うと、勢いよくパクリコンに抱き着きました。
「ああ、パクリコンさん! パクリコンさん!」
 ランカシーレ女王はパクリコンの身体をぎゅっと抱きしめながら言いました。
「私はどうやらこのユーグ王子に操られていたようです! なんとあなたに愚かなことをしてしまったことでしょうか! あのハイヒールとあなたのお身体の傷を見れば、一目瞭然でございます! なんとお詫びすればよいか、私にはわかりません! ああ、お許しください!」
「女王陛下。お詫びなど要りませんって。それに今はまず、安全な場所までまいりましょう。ユーグ王子のことは、庭園で広く臣下に伝えれば良いだけの話です」
「パクリコンさん……!」
 パクリコンはそう言ってランカシーレの腕を自らの腕に絡ませ、聖堂を後にしました。

 小さな騒動が立て続けに起こったのはそれからでした。
 まずユーグ王子がランカシーレ女王に不思議な術をかけたかどで、ユーグ王子は南の王国へと戻されてしまいました。ユーグ王子はランカシーレ女王と話そうとしないばかりか、何故か銀色の棒状のものを極端に怖がるようになりました。そして馬車の色は橙色だったのですが、何故かユーグ王子の命令で青色に塗りつぶされていました。そしてユーグ王子が帰国してしばらく経った後に、ユーグ王子は自分のハーレムを解散させたようです。百人ほどの女性たちはどうなってしまったのでしょうか。誰も知る由がありません。
 それからおなかに傷を負ってしまっていたレビアは、治癒の完了とともに正式にランカシーレ女王の侍女として採用されました。これまでランカシーレ女王の幼馴染であったというだけのレビアでしたが、今回の事件の行動力とその気概は皆の心を打ったようです。この出来事は、ランカシーレ女王をはじめとする女性の立場が確固たるものになった契機として、ゴットアプフェルフルス国の歴史に刻まれることでしょう。
 そして最後に、一番大きな報せがゴットアプフェルフルス国中を駆け巡りました――。

 ランカシーレ女王は工芸小屋を訪れました。工芸小屋では、パクリコンがキャンバスに向かって腕組みをしていました。
「ごきげんよう、パクリコンさん」
「ごきげんよう、女王陛下」
 パクリコンはランカシーレ女王を見やって、にこっと笑いました。
「女王陛下、ついに絵が完成したんですよ。見てください」
 ランカシーレ女王はそのキャンバスを覗き込ました。するとそこには、煤けた小屋の中で一心不乱に絵を描く芸術家とそれを見守る一人の貴婦人が描かれていました。
「まるで私たちみたいでございます。なんと微笑ましい絵でしょう」
「はい。そしてこれで……俺の仕事は一段落したと言ってもいいでしょう」
 パクリコンはランカシーレ女王のほうに向き、大きく息を吸いました。
「女王陛下。……いえ、ランカシーレ」
 パクリコンはランカシーレ女王の前にひざまずきました。
「芸術に貴賤が無いのと同じように、身分に貴賤は無いとあなたは示してくださりました。これからは、あなたをお守りし、あなたに誠意を尽くし、あなたに一生を捧げましょう。一人の芸術家としての魂を、どうかお受け取りください」
 パクリコンはランカシーレに一つの木箱を捧げました。パクリコンがその木箱を開けると、中には銀で出来た指輪が入っていました。
「私と結婚してくださりませんか、ランカシーレ」
 ランカシーレはパクリコンの目を見つめ、極上の微笑みを浮かべて、
「はい。どうか私と結婚を、パクリコン」
と返しました。
 パクリコンはランカシーレの左手の薬指に指輪をはめました。指輪はぴたりとランカシーレの薬指におさまりました。
 パクリコンとランカシーレは抱き合いました。ランカシーレはパクリコンの首に手をかけたまま言いました。
「これからはこの国の王配でございますね、あなた」
「ああ。芸術家だったはずなのにな。なんて出世だ」
 パクリコンは小気味よく笑いました。ランカシーレは続けました。
「どこぞのお金持ちの娘よりかは、よい妻であり続けることを約束いたします」
「約束なんてせずとも、とっくの昔にランカシーレはよりよい妻さ」
 パクリコンもランカシーレも、お互いに見詰め合ったままふふふっと笑いあいました。
 ふとパクリコンはランカシーレに尋ねました。
「……でさ、この光景ってひょっとして誰かに見られていたりするの?」
「はい。それはもう、かけがえのない方に、まぎれもなく」
 ランカシーレがそう言うや否や、工芸小屋の中に緑のドレスを纏った黒髪の女性が駆けこんできました。
「で、どうだった!? どうだったの!?」
「落ち付けって、レビア。俺達は結婚することにしたよ」
「やったあああっ!」
 レビアはパクリコンとランカシーレに抱き着き、頬擦りしました。パクリコンは二人に言います。
「この出来事を国中の人たちに伝えると、いろいろ言われそうだなあ」
「誰よりも相応しい相手である、と誰もが分かって下さります。ご心配など要りませんって」
 ランカシーレはパクリコンの頬にキスをしながら言いました。レビアもパクリコンに言います。
「そうだよ。それに、芸術家あがりの王配なんて史上初だよ。やっぱりゴットアプフェルフルスのこういう自由なところは魅力だと思うよ」
「ははは、俺もそう思うよ」
 パクリコンはレビアの頭も撫ぜました。
「さて、これから忙しくなるな」
「二人で頑張ってまいりましょう。たくさんの未来が待ち受けております」
 ランカシーレはパクリコンに言いました。レビアもまた、
「あたしも応援するよ! なんてったってあたしはランちゃんの侍女だからね!」
とパクリコンに熱く言いました。
 パクリコンはうんと頷き、
「それじゃあ……王宮に行こうか」
と言い、工芸小屋を後にしました。

 工芸小屋から王配が輩出されたことは、ゴットアプフェルフルス国の芸術家たちにとって大きな励みになりました。やがて芸術をはじめとする文化の中心として、雪と氷に閉ざされた北国のゴットアプフェルフルス国は世界に名をとどろかせてゆくようになりました。
 身分や立場に縛られず、愛と情熱に生きるゴットアプフェルフルス国の人々は、その想いで雪と氷をも溶かしてしまえると言われるほどでした。
 数年後、愛と情熱が実を結び、新たな命がこの世に生を受けることになったのは、また別のお話――。

(おしまい)

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